アナキズムの正しい解釈

現代どこまで人は自由か。

生存してゆくために何かの組織に所属しそこから給料を得るという生き方が一般である以上、まずは、人は根源的に自由ではない。

自覚の問題ではあるが、組織に上位者がある以上、命令を付与される。

愚かな命令である方も多く、命令者の正当性が疑わしいことの方が現代組織では多い。

上位者が上位者であり得るのは、組織運営の情報を急速に独占してゆくからであり、けっきょくは人的好悪によるお仲間つながりになってゆき、お仲間のつながりや上位者の、横のつながりで役、つまり、利益を回してゆく。最たるものはコンプライアンスの強化で、色々な情報専門性を作り、生産性も持たないのに、高給を食むお仲間を増やす。

所詮、このせかいは、需要がありば、どんなことでも生業として成立する。誰がどのようにして需要を作り出し、生業まで引っ張ってくる仕組みが作れるかである。

需要は、時として券リュクを持っている者たちによって何の正当性もなく、つまり、お仲間たちだけの合意で勝手に作られ、役得を配分される。

アナキズムひ、まず、それに反発するのだ。

普遍的理念が建前だと非難されるとき非本流が政治空間を流動化してゆき戦争を迎える

戦争とは安定が崩れ、新たな均衡への遷移が過密激烈となる時期であり、また、個々の命を賭してでも新秩序を求めようとする危急の事態であるといえよう。しかし、それを希求するのは、その社会において権力を持っている層の見であることが多く、また、精密にその犠牲や出口戦略を持って突入するのでなく、なんとなくそうなってしまったと言う事態も多い。特に日本ではそこへ流れてゆく段階段階での決断責任に個人が強い意識を持つことがない。今の決断が何を導き出すのかそのことのリスクとカバーにきちんと責任を持って決断する人間は皆無である。

かつての戦争において明白なのは事実としての侵略である。体制が惰弱な他国の中に

無しくずし的に植民化を行いそれが世界の非難を浴びて戦争に入るという形である。

しかし、今や、そこまで惰弱な体制の国家はアジアにおいてはない。

ただ国境が画定化していない場所での係争は存在する。そこでの接触や互いの威嚇におけるミスが招く衝突が戦争への契機となる。

相互承認が十分なされているところでそのような偶発的な接触が起こっても戦争化はしない。

相互増悪を作り出さないことが大切であるが、それを作り出しやすい体質を持ったリーダーがいると厄介なことになる。

そのようなリーダーは、ひとまず、非本流の何かしらルサンチマンを抱えたものたちであることが多い。権威的パーソナリティーを持つものが多い。 

 

戦争への前提となる相互増悪状況に入るとき共通してとらえられる現象がある。

普遍的に共有された価値概念への攻撃が行われることと権力決定が今までと異なるところで行われるような現象である。

列挙すれば、ナチスの台頭過程であり、日本軍部の戦前初期からの振る舞いである。

現代で言えば、トランプのポリティカルコレクトネスを否定する言説であり、安倍首相官邸が他省庁を超えて突出的に判断を初めた事実である。

政治空間の「創出」こそ、非本流権力者の手法である。

 

トランプの手法は実に面白い。

外交をビジネス化した。本来、外交は、損得と切り離された理念と損得のバランスの中でもどかしく行われてきた。理念を共有化し伸長してゆくことが戦後外交の世界的な方向であった。トランプは、そうした普遍理念をまったくビジネスの素材と同じレベルで扱い、ディールする。つまり、世界にルールや理念はなくなり、永遠のビジネス闘争の場となる。戦争も下手をするとビジネスの手段となる。

 

安倍もトランプも現在にしか生きない。人類普遍の理念という根本理念が身に染みていない。自分がどのくらいの国民を代表しているのかという深い自覚がない。何かをするということを機能レベルでしかとらえられない。アクションを多発しそのことが起こす結果を確認する前にさらに様々な課題に対してアクションを起こし、結果として目くらましとなる。悪気はないのだろう、価値を考える深みを欠いたビジネスコンサル的人間である。自分の品位のなさ、そこから繰り出されるビジネスのようなアクションが国の価値や雰囲気をどう変えているのかの自覚がなく、美しい日本という実体のない押しつけのような価値や憲法改正を取ってつけたように別次元で持ち出し政争化する。

 

政治は人格と無縁になった。そこに本質的な共感や尊敬はない。

改憲問題について

安倍政権が改憲を企てようとしている。

憲法について、9条についての議論がまた激しくなされていくことになるであろう。

しかし、どのような憲法論争がなされたとしてもその裏には実は現実的な価値の大きな対立が隠されているのである。意識していようがおるまいが、日本の安全保障のあり方をどうしたいのかと言う価値がまずありそこから憲法を覗いているのである。

既存の準備された目に見えるものを使って日本の平和を構想しようと言う者とまだない空間に新たな方法の模索をしながら、できれば、日本だけの平和ではなく、世界全体の平和の中で日本の平和を築きたいと思っている者、その二者の対立の反映なのである。理想と現実をどのようなバランスで捉えどのようにそれらを引き受けていくかそれは生き方の違いといってもよい。

あえてここで理想主義者と現実主義者と言うわかりやすい言葉でその両極をモデル化してみれば次のようになるであろう。現実主義者は、過去に囚われたくは無い。今の自分の意思と今目の前にある選択肢以外に信じられるものはないと感じている。現実主義者は、実は憲法などいらないのである。憲法と一般法の差などない、ルールを守るためきっちり明確に書き直された法があればいい位に思っている。憲法の持つ歴史性への認識などない。一方、憲法と言うものは、やはり、制定されて以来未来に向かって人を縛るものだ、縛られて当然のものであると言う了解のもとに成り立っていると思うのが理想主義者である。憲法に規定された精神は、長い人間の不幸な戦いの中で人間が共存するために析出して来た権利、根本原理であり、憲法とは、その成果を共通の原理として受け止めようという誓約であると考える。

現実論者は、憲法制定時のそのような誓約は虚妄であるとさまざまに立論する。あたかも歴史修正主義者のように。ただ、現実主義者でも、国民主権、人権、自由、生存権、そうしたものに異議を唱え否定する者は少ないであろう。ただ、どこまでその権利を拡張し守り抜くかと言う決意の強さは理想主義者よりも弱いであろう。そのような者は現実が苦しくなってくると生存権を制限すべきだと言い出すかもしれない。

だから、憲法論議においては、現実化がいちばん輻輳している安全保障の問題、つまり、9条、非戦条項の捉え方が最も大きな対立を生んでいるのである。

憲法と言うものが人類にとってどのような機能を持つべく出現したのか、歴史的に析出された普遍的権利概念を大切にしたいと考える者にとってみれば、非戦が、簡単に現実化できるかどうかはまず置いて憲法に文字通り記されている理想をまずは実現すべくあらゆる力を尽くすべしと考える。単に日本の安全保障ではなく世界の非戦と言う事を考える。現実主義者は、そんなことはできはしないと簡単にいう。理想主義者は、小さな部分では語り得ても現実的な全体的方策を示せずにいる。示そうというエネルギーが奪われているのだ。なぜなら、まず政府や財界にその気がないからである。

このような状況の中で、改憲が規定化するのはとても危険である。そもそも安倍首相は以上の議論からも外れた全く個人的なエモーションで改憲したい様子がうかがえる。妙なルサンチマンさえ彼の奥に感じることができる。

時代はトランプの出現に見られるように歴史性を切断した即物主義が支配する状況である。敵を自然に析出するこのような時代において冷静な思考など確保されるわけはない。

自衛隊の存在を憲法に書き加える事は良いのかもしれない。ただ、それだけを書き加えてしまえば、自衛隊はいくらでも巨大化し、集団的自衛権という名のもとに他国の戦場にも出て行けるようになるであろう。違憲 合憲と言う議論はあまり意味のあるものとは感じられないが、それは当然、憲法精神から言えば違憲としか言いようがないのではなかろうか。

 

最近、朝まで生テレビであるお笑い芸人が、非難中傷受けていた。非武装中立なぜいけないと彼は叫んでいた。彼をせせら笑っていた誰より実は彼の思考の方が根源的である。非武装中立無抵抗、ゲリラ戦を含んだ国民総抵抗、色々な想像力を失った時、知性は現実の平面から飛び立てなくなる。何も、世界の一部に加担する集団安保だけが選択肢では無いのだ。集団安保だけの選択肢しか思い付かないのは、肝が座っていないか、怠け者でしかない。政治空間を新しく開いていく発想力のない思考なのだ。そうした現実主義的な発想は、マネー経済から規定される人々の生き方から来るのであるがそれはまた後日お話しすることができよう。マネー経済を相対化しない人ほど改憲に対し「現実的」であり、改憲内容において「現実的」であることは顔ぶれを見れば皆様すぐに合点が行くであろう。

 

なぜこう生きねばならないのか?

いきなりですが、なぜ、私たちは毎日、学校や会社に通い、人生のほとんどの時間の過ごし方の形をそのような枠組みの中で過ごさねばならないのか。まず、「本当はそのような必要はない」という仮定から出発して考えてみましょう。

なぜ、家族や近所で出会う人は別として、人生で出会う人々の90%が、学校や会社で出会う人々になってしまうのか。突然電車で隣り合った人と恋をして結婚し一生を共にする、そんなことは、奇跡のようなロマンチックになってしまうのか?それはいったいどのような世界の不思議、からくりなのだろうか。

今生きている形が窮屈だったり不思議だという不満がなければ、そのような疑問は芽生えないでしょう。悩む人にしか世界の真相は見えてこないのです。

少し昔流行った風に言えば、そのように今の当たり前を疑う意識や生き方が「対自」的ということであり、自分の意識の形に何も疑問が生じないことを「即時」といい、それはそれで「お幸せ」なことであると言われたのでした。

 遠く先取りすれば、私たちは「お幸せ」になるために、まずは「対自」的に意識や精神思考の地獄めぐりをせねばならないということになります。意識が意識を捉えなおすという作業は、下手をすると狂気にまで取り憑かれます。それが地獄めぐりと言われる所以です。

こういう精神の巡礼をこれまた一昔前は「弁証法的」な事の一つと言ったのでした。

開設「知の形」

少し年齢を取りました。ずっと黙っていたのですが、考え続けてはきました。

社会や世界のあれこれや生き方の真相について、特にこれから世界に潜り込んでゆく若い方々や生きることにこんがらがってしまったような同輩に対し、少しでも「真相」を掴むよすがになれば、そして私自身に書くことによる平穏がもたらせればと思って開設しました。

モットーは「誠実に考える」です。

宜しくお願いいたします。