普遍的理念が建前だと非難されるとき非本流が政治空間を流動化してゆき戦争を迎える

戦争とは安定が崩れ、新たな均衡への遷移が過密激烈となる時期であり、また、個々の命を賭してでも新秩序を求めようとする危急の事態であるといえよう。しかし、それを希求するのは、その社会において権力を持っている層の見であることが多く、また、精密にその犠牲や出口戦略を持って突入するのでなく、なんとなくそうなってしまったと言う事態も多い。特に日本ではそこへ流れてゆく段階段階での決断責任に個人が強い意識を持つことがない。今の決断が何を導き出すのかそのことのリスクとカバーにきちんと責任を持って決断する人間は皆無である。

かつての戦争において明白なのは事実としての侵略である。体制が惰弱な他国の中に

無しくずし的に植民化を行いそれが世界の非難を浴びて戦争に入るという形である。

しかし、今や、そこまで惰弱な体制の国家はアジアにおいてはない。

ただ国境が画定化していない場所での係争は存在する。そこでの接触や互いの威嚇におけるミスが招く衝突が戦争への契機となる。

相互承認が十分なされているところでそのような偶発的な接触が起こっても戦争化はしない。

相互増悪を作り出さないことが大切であるが、それを作り出しやすい体質を持ったリーダーがいると厄介なことになる。

そのようなリーダーは、ひとまず、非本流の何かしらルサンチマンを抱えたものたちであることが多い。権威的パーソナリティーを持つものが多い。 

 

戦争への前提となる相互増悪状況に入るとき共通してとらえられる現象がある。

普遍的に共有された価値概念への攻撃が行われることと権力決定が今までと異なるところで行われるような現象である。

列挙すれば、ナチスの台頭過程であり、日本軍部の戦前初期からの振る舞いである。

現代で言えば、トランプのポリティカルコレクトネスを否定する言説であり、安倍首相官邸が他省庁を超えて突出的に判断を初めた事実である。

政治空間の「創出」こそ、非本流権力者の手法である。

 

トランプの手法は実に面白い。

外交をビジネス化した。本来、外交は、損得と切り離された理念と損得のバランスの中でもどかしく行われてきた。理念を共有化し伸長してゆくことが戦後外交の世界的な方向であった。トランプは、そうした普遍理念をまったくビジネスの素材と同じレベルで扱い、ディールする。つまり、世界にルールや理念はなくなり、永遠のビジネス闘争の場となる。戦争も下手をするとビジネスの手段となる。

 

安倍もトランプも現在にしか生きない。人類普遍の理念という根本理念が身に染みていない。自分がどのくらいの国民を代表しているのかという深い自覚がない。何かをするということを機能レベルでしかとらえられない。アクションを多発しそのことが起こす結果を確認する前にさらに様々な課題に対してアクションを起こし、結果として目くらましとなる。悪気はないのだろう、価値を考える深みを欠いたビジネスコンサル的人間である。自分の品位のなさ、そこから繰り出されるビジネスのようなアクションが国の価値や雰囲気をどう変えているのかの自覚がなく、美しい日本という実体のない押しつけのような価値や憲法改正を取ってつけたように別次元で持ち出し政争化する。

 

政治は人格と無縁になった。そこに本質的な共感や尊敬はない。