なぜこう生きねばならないのか?

いきなりですが、なぜ、私たちは毎日、学校や会社に通い、人生のほとんどの時間の過ごし方の形をそのような枠組みの中で過ごさねばならないのか。まず、「本当はそのような必要はない」という仮定から出発して考えてみましょう。

なぜ、家族や近所で出会う人は別として、人生で出会う人々の90%が、学校や会社で出会う人々になってしまうのか。突然電車で隣り合った人と恋をして結婚し一生を共にする、そんなことは、奇跡のようなロマンチックになってしまうのか?それはいったいどのような世界の不思議、からくりなのだろうか。

今生きている形が窮屈だったり不思議だという不満がなければ、そのような疑問は芽生えないでしょう。悩む人にしか世界の真相は見えてこないのです。

少し昔流行った風に言えば、そのように今の当たり前を疑う意識や生き方が「対自」的ということであり、自分の意識の形に何も疑問が生じないことを「即時」といい、それはそれで「お幸せ」なことであると言われたのでした。

 遠く先取りすれば、私たちは「お幸せ」になるために、まずは「対自」的に意識や精神思考の地獄めぐりをせねばならないということになります。意識が意識を捉えなおすという作業は、下手をすると狂気にまで取り憑かれます。それが地獄めぐりと言われる所以です。

こういう精神の巡礼をこれまた一昔前は「弁証法的」な事の一つと言ったのでした。