生存の足かせから逃れなお善なるものを求めることが喜びとなることについて

私はもはや知的なものに世界の真相を知ろうとすることに渇望する必要は無い。既にようやく知徳したからである。
後は、現在における明白な善なるものへの方向に向けて、常により良きものは何かを心しながらその勢力に力を貸し、善なるものへの社会変容に向けて新しい空間を作り力を加えていくと言う日々の生き方が残っている。
その過程において疲弊することなく、知的に渇望することに擦り切れることなく、現実に必要な社会的決めごとを学び、善なるものにどれだけ近づけるか、私自身の内面及び私の周りの関係性への働きかけの成果をゲームのように楽しみ、知に囚われない芸術の全般を味わい、人生を、他者との関係を楽しみ、善なるものに無関心な者、振る舞いの汚き者を避け、時にそいつを罵り、そのこと自体も苦い味わいとして楽しみ生きていくだけである。