ガイストあるいは集列ついて

不完全な言い方ではあるがまず人類に意思はあるが個人には意思がない。この意思と言うのをガイストと呼んでみよう。もっと丁寧に言うとこうなって欲しいと言うイメージに現実が力づけるかどうか、その到達度から計った場合、個人には意思が働かない場合が多いが、人類にはいっきょに意思が成立する可能性がある。
1つのイメージをまず持ってみよう。個人がたくさん集まって人類となるあるいは社会となる。個人は人類のあるいは社会の関係性によって規定されている。関係性のゆるい部分で個人は何でもできると言う自由意思を持っているが、関係性をどこまで変えられるのかそれはひとまず謎である。
民主主義と言うひとまずの制度、それは社会全体の関係性を個人の自由意志によって変えていくチャンスを開く政治制度であるはずであるが、それがその個人にとって個人の望む形に十全に到達できるかどうかは謎であり、「偶然」のように見える。
では、個人の自由意志が個人の思いを叶える形になるまで到達できるのかどうか、逆に言えば、社会の関係性が変わるのは、何によってであろうか?
ドイツ哲学的に言えばそれは、「精神」である。社会あるいは共同体の精神である。
それは現代的に見直してみれば、個人個人の間を行き来しまた個人個人に振り返ってくる、マスコミやその他日常の中で行き来する情報の傾向である。この情報の傾向がどのように1つの精神となっていくのかそれを生地に分析することも必要であろうが、あるいは、その精神を形成するのに多大な力を持つものが1時代前はジャーナリズムと言うことであった。ジャーナリズムと言うコミニュケーションであった。いまやジャーナリズムと同じ位にSNSの力が強力とはなっている。

さて個人の自由意志は、その個人が思うところの思いを叶えるのに今どのぐらい有効なのだろうか?
完璧な機械論のように全く自由意志などないと想定する考え方もあるかもしれない。しかし、人類と例えば魚を比べてみれば、やはりそこには格段の差が存在する。
海の状況が生存に適さないほど激変していくときに、一人ひとりの魚は、そのことすら自覚できず、結局類としての魚も魚自体や周りの環境への働きかけが何もできず死滅していくであろう。
人類は、個々の人間が、例えば環境の変化を危機と感じることができる。全員ではなくとも、1部の人間が気づきコミニュケーションによってそれが類の全体に対しある意味提言と言う形でまずは示されることができる。この後、類全体が、関係性を変え環境に働き帰る方法を変え生き延びるかことができるかどうかはわからないが…。ただ魚と人類の間に、自由と言う点で決定的な差があるのは明白である。
 
自由ということはまず欲望があるということだが 欲望は むから生まれるのではなく 生き物という拘束や 社会が用意した可能性の中での 選択という形で現れる。選択しない自由をひとまず消費と言い、消費以外の欲望は もっと先の例えば恒常的安心の環境が与えられることとか自分好みの政体への要望であったりするわけでそれらは もう少し先の未来的 あるいは複合総合的な欲望ということになる。 その場合に集列度が高まるわけだ。
集列とはサルトルの用語を延引した者で、複数者間に不奇数であるゆえ発生する対立、精神がひとつにならない根本構造を指す。

集列の乗り越え、万人自由意志が通る あるいは 万人に格差なく自由意志が自由と捉えられるような仕組みとは何かという救命が常にテーマとしてあるわけだ.。

個が望む社会の関係性を一気に変えるきっかけを作ることのできるイメージ持つことができよう。例えばアナルコサンディカリズムである.生産の関係性から一気にある瞬間全員が抜け出す、ストライキである。社会関係性の大元をなす関係性の基盤が一気に消失したことになる。しかし、生産無くして人類は生ききれない。どのような新しい生産関係を準備していたのかということになる。しかし、過去においては、全体で言えば集権的社会主義だったろうし部分で言えば労働者管理であったろう。それらの命脈がどのくらいのものに予想されるかは別として。

さて現在コロナのパンデミック下の日本でいつ緊急自体宣言をせねばならないか、政府は、いつもは強引な法解釈をするのに今回は何を躊躇しているのかというような状況下にある。
けいざいりょくのていかと宣言したとき経済保証を政府がどうしたら良いのか、どうしたらできるのかわからない、あるいはそれを最小にしたいので躊躇しているわけだ。しかし、遅れれば、医療が崩壊し死者が激増し、生産も遅れる。自分の頭の中でチキンゲームをしているわけだ。
これは平常時の現代を炙り出している。地球の環境は危ない。しかし、それにかける面倒さ、生産力の振り分けに類する問題、どちらが良いか強い自覚もなく眺めてしまっているわけである。

世界が分断されている。しかし世界が、それぞれの部分的犠牲をして、世界全体の格差の基礎部分を補い、なぜ、世界精神をふかくかたちづくってゆこうとしないのか。これも、目の前の現象と多生の自己保持が先行するからである。ますます争う形を増強してしまう。