社会を変える力はどこにあるのか

奇妙な想定の仕方であるが、社会をどう変えたら良いのかがわかったとしたときそれを変える力はどこにあるのだろうか。想定される第一は権力を持っているものである。しかしこれはとても無力感を感じさせる。40 50歳にもなって。企業に所属している人間がどのようにして自分の生活を超えて社会全体の関係性を生産の仕組みを変え得ると言うのであろうか。代表制民主主義に則って自分の思いに近いことを述べている政党に票投じると言うことだろうか。あるいは権力を奪取せよと言うことだろうか。古い名刺と言えば、暴力革命に参加しときの政治体制を崩壊させるとともに新しいことを行うために新しい政権を作ると言うことである。しかしこれもまたとても短い個人の人生において、ましてや、今すぐ生存の危機に面しているわけでもないと言う先進国の人間にとって現実的であるとは思われない。近代以降において1つだけ自然に社会を変容させるポジションがある。それは、この資本主義関係の中に入っていないがいずれ自然に入っていくであろうと言う人々、つまり、子供であり、若者である。言い換えれば世代の遷移が可能とすると言うことである。そしてそこから発想されるもう一つの可能性の利益は、現在資本主義の周縁の領域である。つまり、逆説的になってしまったが人間の生存に1番直結する第一次生産業の世界、あるいは別の言い方をすれば空間的にいう地方である。
生存と言う次元からこの経済社会、権力分の関係性を変容させねばならない視点が生まれる。特に、このパンデミックと言うような状況においては。子供たちは若者たちは、生産関係の中に入る前に、そうした視野を含んだ批判性を持っていなければならない。第一次産業の世界が、もう少し嶋聡的に動くならば、方法はある。ストライキである。ストライキとは、生産性に破れ目を作り、生産の関係を一時的に崩壊させると言う方法である。ただストライキがなかなかその効力を発行しづらいのは、次なる生産関係をどのようにするのかと言うあらかじめ持っていない場合が多いこと、単なるストライキ者たちにとっての優位性を貸せるための取引としてストライキを考えてしまっていることなどが多いからである。
このように概念的に新しい社会関係を作り上げる拠点をいくつか別居したがなおそれらの効力を阻むものがある。それは、国家と言う単位である。1つの国家内においては何とか新しい関係性を設定し直すことが可能かもしれない。しかし国内のそうした関係性と世界全体の中での関係性の接続が問題となってくる。どうしても価値の共有は、一気に状況格差のあまりにも違う世界全体で成立していくことは難しい。ただ、ある程度の長い時間をかけても社会の関係性を変えていくということが世界街にも白がであろうと言う希望の根拠は、その新しい酒井の目指すべき関係性と言うものが、1番格差の根底に置かれている者たちを1番少ない方法であろうと言うことである。