改憲問題について

安倍政権が改憲を企てようとしている。

憲法について、9条についての議論がまた激しくなされていくことになるであろう。

しかし、どのような憲法論争がなされたとしてもその裏には実は現実的な価値の大きな対立が隠されているのである。意識していようがおるまいが、日本の安全保障のあり方をどうしたいのかと言う価値がまずありそこから憲法を覗いているのである。

既存の準備された目に見えるものを使って日本の平和を構想しようと言う者とまだない空間に新たな方法の模索をしながら、できれば、日本だけの平和ではなく、世界全体の平和の中で日本の平和を築きたいと思っている者、その二者の対立の反映なのである。理想と現実をどのようなバランスで捉えどのようにそれらを引き受けていくかそれは生き方の違いといってもよい。

あえてここで理想主義者と現実主義者と言うわかりやすい言葉でその両極をモデル化してみれば次のようになるであろう。現実主義者は、過去に囚われたくは無い。今の自分の意思と今目の前にある選択肢以外に信じられるものはないと感じている。現実主義者は、実は憲法などいらないのである。憲法と一般法の差などない、ルールを守るためきっちり明確に書き直された法があればいい位に思っている。憲法の持つ歴史性への認識などない。一方、憲法と言うものは、やはり、制定されて以来未来に向かって人を縛るものだ、縛られて当然のものであると言う了解のもとに成り立っていると思うのが理想主義者である。憲法に規定された精神は、長い人間の不幸な戦いの中で人間が共存するために析出して来た権利、根本原理であり、憲法とは、その成果を共通の原理として受け止めようという誓約であると考える。

現実論者は、憲法制定時のそのような誓約は虚妄であるとさまざまに立論する。あたかも歴史修正主義者のように。ただ、現実主義者でも、国民主権、人権、自由、生存権、そうしたものに異議を唱え否定する者は少ないであろう。ただ、どこまでその権利を拡張し守り抜くかと言う決意の強さは理想主義者よりも弱いであろう。そのような者は現実が苦しくなってくると生存権を制限すべきだと言い出すかもしれない。

だから、憲法論議においては、現実化がいちばん輻輳している安全保障の問題、つまり、9条、非戦条項の捉え方が最も大きな対立を生んでいるのである。

憲法と言うものが人類にとってどのような機能を持つべく出現したのか、歴史的に析出された普遍的権利概念を大切にしたいと考える者にとってみれば、非戦が、簡単に現実化できるかどうかはまず置いて憲法に文字通り記されている理想をまずは実現すべくあらゆる力を尽くすべしと考える。単に日本の安全保障ではなく世界の非戦と言う事を考える。現実主義者は、そんなことはできはしないと簡単にいう。理想主義者は、小さな部分では語り得ても現実的な全体的方策を示せずにいる。示そうというエネルギーが奪われているのだ。なぜなら、まず政府や財界にその気がないからである。

このような状況の中で、改憲が規定化するのはとても危険である。そもそも安倍首相は以上の議論からも外れた全く個人的なエモーションで改憲したい様子がうかがえる。妙なルサンチマンさえ彼の奥に感じることができる。

時代はトランプの出現に見られるように歴史性を切断した即物主義が支配する状況である。敵を自然に析出するこのような時代において冷静な思考など確保されるわけはない。

自衛隊の存在を憲法に書き加える事は良いのかもしれない。ただ、それだけを書き加えてしまえば、自衛隊はいくらでも巨大化し、集団的自衛権という名のもとに他国の戦場にも出て行けるようになるであろう。違憲 合憲と言う議論はあまり意味のあるものとは感じられないが、それは当然、憲法精神から言えば違憲としか言いようがないのではなかろうか。

 

最近、朝まで生テレビであるお笑い芸人が、非難中傷受けていた。非武装中立なぜいけないと彼は叫んでいた。彼をせせら笑っていた誰より実は彼の思考の方が根源的である。非武装中立無抵抗、ゲリラ戦を含んだ国民総抵抗、色々な想像力を失った時、知性は現実の平面から飛び立てなくなる。何も、世界の一部に加担する集団安保だけが選択肢では無いのだ。集団安保だけの選択肢しか思い付かないのは、肝が座っていないか、怠け者でしかない。政治空間を新しく開いていく発想力のない思考なのだ。そうした現実主義的な発想は、マネー経済から規定される人々の生き方から来るのであるがそれはまた後日お話しすることができよう。マネー経済を相対化しない人ほど改憲に対し「現実的」であり、改憲内容において「現実的」であることは顔ぶれを見れば皆様すぐに合点が行くであろう。